文章→映像

早い話、文章を読んで頭の中で映像を描けるか、ってこと。ネタ元はウイングバードってとこで、知ったのは仮面さんのとこ。
んでまあ僕は出来る方だと思うんだけど、すでにそこが自信ない。ネタ元から2chのコピペ抜粋するが、

>>「正装して踊る1000人のパプアニューギニア・フリ族」と書かれただけで、その知識さえあれば クラクチョウの羽を飾り、顔面を黄色や赤の染料で化粧したフリ族がクンドゥーのリズムに乗って 踊り狂う様が脳内に現れるのだ。

 とある。逆に言えば知識がなければ脳内には現れないわけで、つまるところこれは映像の記憶の良し悪しや知識のことでしょ。イメージは誰にだってできて、その脳内に現れる像の濃淡は知識や記憶の量で決まるってことなんじゃねえのかな。住み慣れた自分の家の間取りを想像できない人っていないと思うんだけど。
 ただこれが他人の家になると別で、「俺の家は二階建ての5LDK」って言葉を聞いたとき、その5LDKを想像できる人間とできない人間がいるのは理解できる。けど、イメージできる人間ってのは、自分の記憶にある家や二階建てや5LDKやらを使って適当な5LDKをでっちあげてるだけなわけで、おそらくその5LDKはどこかでみたことのある家のツギハギだと思う。そのツギハギが小さすぎたりして断定できないことはあるだろうけど、記憶や知識のないものをイメージできないのはイメージできる側の人間の言葉が証明してるわけだし。
 小説に出てくる街なんてたいていが知らない街――というか架空の街なわけだから、僕らがその街を想像したとき、ひとりひとりが間違いなく違う街を頭の中に作ってる。その街が全く別物である可能性は充分にあり、僕ら(イメージ出来る側)はそれを、文章で映像が見れると言ってるにすぎない。イメージが出来ないといってる人だって、近所の風景くらいは何か思い浮かべることができると思うんだけど、それを小説の舞台の街だと言ってるのと変わらないわけですよ。
 ファンタジーの世界を想像するにしても、アニメで魔法と剣の世界を強く記憶してる人間と実写の映画とかで記憶させてるやつがいたとき、前者の場合やっぱアニメで、後者の場合実写で想像してるんじゃねえかな。

 S木の家を想像するにしても、玄関があって三歩くらいあるくと右と左に扉があって、扉の先には部屋があって、左の部屋にはパソコンと本棚があって、廊下をもうちょっとあるくと左にトイレがあって右に洗面台と風呂場があって、廊下を進むとリビングがあってそこにはエアロバイクがあって、その左側にはギターの置かれた和室があって、右側にはテレビがあって、テレビの目の前から右を向くと台所が見える、と僕はイメージできる。けど実際にはトイレが右で風呂が左かもしれない。加えて模様替えされていてエアロバイクはすでにないかもしれないし、確かギターはもうないハズで、間違えてる可能性を充分に秘めてる。それは僕の記憶力の弱さが原因なわけで、だからこそS木は間違えないだろう。そこで過ごした知識や経験が豊富だからだ。S木の家に入ったことのある僕は、当時見たときのギターを一応イメージできるけれど、S木がギターの名前や型番を晒してくれるなら、ギターに詳しい人はたとえS木の家に入ったことがなくても僕よりギターのデザインや形を明確にイメージできる。そういう単純なことだと思う。




あー何がいいたいのかよくわからなくなってきたのでこれで終る。