文章→映像について2

まだ話題になってることに驚きつつリンク辿って読みあさってみた。

2%さんが色々わかりやすくトピック作ってくれてんで、それについて考えてみる。


文章を読むプロセスのどの段階に映像が生じるのか?

  • 仮定……読書のプロセスを(1)文字の認識→(2)意味の解釈→(3)物語の構成とする。
  • 仮説……(1)→(2)の映像化は読書速度を高める。文字の配列を「一枚絵」として認識する速読法と比較せよ。
  • 仮説……(2)→(3)の映像化は読書速度を抑える。このフェイズでの映像処理は読み取りよりもむしろ創作に近いと考えられるため。
  • 仮説……(1)→(2)および(2)→(3)のどちらか一方を映像化する人と、両方を映像化する人がいる。
  • 仮説……あるいは(2)における一時記憶および(3)における短期記憶にそれぞれ文字形態と映像形態がある。

 文字の認識と意味の解釈、物語の構成ってのは全部一緒くたのもんだと思うんで正直よくわからん。同じ理由で速度の方もわからない。映像化について、僕はゲームをしながらそのSSを想像もしくは創造してr…いや、この場合逆なのか? とにかく、並列して進む事もしばしばあるので、目で追った物とはまた別のものを処理するのが速読法であるなら、そっちの方が間違いなく速い。全体でみたときはどうかしらんが、ある個人で比べたときは間違いなくそうだと思う。 


映像の程度=リアリティ/ディテールか?

  • 支持要素……漠然とした輪郭が浮かぶ人と詳細な光景が浮かぶ人の存在。人物と背景のどちらか一方が浮かぶ人と両方が浮かぶ人の存在。静止画を浮かべる人と動画を浮かべる人の存在。

 これは文章(のおそらく好みやら印象)によって異なる。共通してるのは不足する情報を間違いなく勝手に補完してるって点。つーのも、不足する風景を記憶により補完するってのは目の構造上誰もが日常的に行ってることだからね。

  • 否定要素……辞書、六法、技術書、哲学書などから映像を浮かべる人の存在(抽象概念のリアリティとは?)。漫画のコマ割りのような映像を浮かべる人の存在(動画と漫画のどちらが「リッチ」か?)。また、後者は効果線や吹き出しの有無について調査の必要あり。

 六法については、目的によって変わると思う。国税の勉強をしてるときは商法、民法、税法でよくモデル図を思い描いていた。
 どっちがリッチかってのは実に難しい問題だよ。とりあえず言えるのは動画も漫画もどっちもやるってことくらい。ちなみに、吹き出しや効果線はあります。吹き出しがあっても声もするけどね。

  • 不明要素……文意の中心にあるものしか浮かばない人の存在。単に想像世界の中で視線をブレさせない人と、真に書いてあるものしか見えない人の2種類いると予想。

 よくわからないのでパス

  • 不明要素……伝統的な「絶世の美女」問題との関連。「絶世の美女」と書かれていたとき、映像としてリアリティがあるのは写実的で具体的な映像よりもむしろ必要な箇所が適切にぼかされた映像ではないのか。

 同意。というのも、これは昔一度書いたことがあるのだけれど、絶世だとか完璧だとか、そういう抽象的なのは具体的な映像を出せないからだと考えてる。だから抽象概念のはモデル図だとか、自分の目的に添ったものになる。僕らが完璧な人間を思い浮かべたとしても、完璧でない僕たちが想像するその完璧な人間というのは必ずどこか欠けてる、もしくは過剰であるはずなのだ。

視覚以外の感覚は働き得るか?

  • 仮定……聴覚、嗅覚、味覚、触覚、体感覚などの五感も使われ得る。

 本を読む、という段階での話なら聴覚までが限界。嗅覚、味覚、触覚、という段階まで行くと俺の中では読書の域を超えてるんだよね。日常生活を送れない、という点からみてこれはもう夢の領域。「めいせきむ(何故か変換できない)」だよね。
 物語に入り込み聴覚、嗅覚、味覚、触覚、体感覚などの五感を使える(意図的にめいせきむを見れる)か、という意味なら可能。

  • 仮説……仮想視覚主体で読む人の読書速度は仮想聴覚主体で読書する人の読書速度よりも高速。

 他人同士では正確に調べることができないと思う。読書の熟練度も脳の出来も、なにもかもが違うわけだし。

速度以外の比較基準はあるか?

  • 記憶の定着……文章のどの要素を、どのように、いつまで、覚えているか?

 どの要素と言われると困るけど、気に入ったフレーズとか、強烈なインパクトがあったところは長い間覚えてるけど、これは繰り返すことによって記憶が強化されてる面もあると思う。

  • 文章の再現……映像を浮かべる人は暗誦の際にも映像を使うのか? また、暗誦は得意か?

 暗唱ねぇ…したことないんで得意かどうかはわからんけど、紙媒体の場合はそのページを見ながら文章を追ってる感じ。僕の好きな作品の1ページ目だけをちょっと今からやってみる。件の作品がわからない人にはごめんなさい。わかった人はコイツ記憶力ねぇなと蔑んで下さい。作者の人は問題あればキレてください。消しますので。

 256段。
 僕はそれを実際に口に出していった。
 256の人間、256の羊、256のスチールウール。僕はスチールウールについて考える。この前の理科の実験で火にかけたスチールウール。それは同級生の倉田という男子生徒の頭にそっくりだった。その日からめでたく倉田のあだ名はスチールウールだ。
 僕が今数えたのはスチールウールじゃなく階段だ。256段の階段。257段目。
 僕は階段を登っている。258段目。
 わかっている。無駄なんだって。259段目。
 僕が今いる『ここ』は、足元さえハッキリしない、澱みとかび臭さがどっかりと居座る、何年も使っていない学校の二番倉庫と同じくらい真っ暗である。260段目。
 考えて見れば260段もある階段というのは初めて登る。今までで最長記録は従姉弟の大学合格祈願に付き合わされた200段。記録更新。
 261段。記録は更新されていく。どこまでいく? ギネスか? ギネスなんだな? おーけい、付き合うよ。闘うよ。金では買えない勝利のために。
 ばかだ。ぼくはばかだ。真剣に考えて見る。倉田の頭でもギネスでもなく、もっと切実なこと。
『ここ』はどこだろう。
 問題はバーゲンの子供服売り場のように山積みだ。まず、ここがどこか知らない。どこにむかっているのかも知らない。どこまで階段が続くのかも知らない。どうしてここにいるのかもわからない。ここにくるまでの経緯が思い出せない。眠ったとわかっていれば、夢だと思えるのに。
 僕はまだ階段を登り続けている。265段目。
 今、僕は両手を握られている。手の主は僕より先を歩いている。暗いので顔は見えない。どっちも違う手だということはわかる。そして、どっちも女の子だ。
 266,267,268、僕は数えつづける。数えろ数えろ数えろ。
 ここに来る前、僕は何をしていただろう。サッカーなんてやっていなかっただろうか。僕はサッカーのときよく転ぶ。よく砂で手を汚す。

 とまあこんな感じです。かなり間違えてるとは思うんですが、まあそこはホラ、暗唱用に覚えたわけじゃないですから、と言い訳しときます。

  • 創作の起点……自分で物語を作る場合に、映像が起点になるか? 読書中の映像化との関連は?

 SSの場合は間違いなく映像起点。読書中の映像化との関連というのはちょっと意味がわかんない。読書しながら自分で物語を作る、という意味?

差し当たってのまとめのようなもの

  • 仮説……五感に依存する読み方をする人は、物語を堪能すること、小説世界に没入することに主眼を置いている。

 これはまさにそう。

  • 仮説……五感に依存せず速読気味に読み進める人は、作品を読破すること、小説世界を征服することにエクスタシーを覚える。

 エクスタシーは別に覚えないけど、速読気味に読むときは作品を読破することが目的になってる。オリ3のときは間違いなくこっちだ。最初速読して気に入れば映像化、というスタンス。

結論……速読を身に付け、また映像や音声の想像にも慣れておき、状況と対象によって適切に切り換えて読み進められるようにすれば、きっと幸せになれる。

 今の僕が幸せかどうかはしらないけれど、楽しみ方が多い、というのはきっといいことなんだと思う。