僕僕先生2

実は、読み終えて感想も途中まで書いていたりしたのだけれど、書き終える前に匙を投げていたのだった。
というのもね、レビューやら感想っていうのは根本的に他の読者のためにあると思うんですよ。
読者→作者ではなく、読者→他の読者(とその予備軍)が感想の根本にあり、読者から作者へは、言葉以外大した意味はないと思うわけで。
おそらくこれは少数派の意見なんだろうけど、やっぱ僕としては感想ってのは
伝わっていく、広がっていくモノなんですよ。相沢のAVレビューみたいに。

なわけで、一度間を置くと本流から置いていかれた気がしてなんとなく捨て置いておくことになっちゃったわけで。
で、今日僕僕先生についてちょっと話す機会があったので、書き終えておくことにしました。
前回の続きからですけど。
ネタバレありなんで気にする人は読み飛ばし推奨します。


で、吉良なんですけど、やっぱ赤兎馬でした。
こうなると、前回も触れた通り名前の由来が非常に気になるところです。
これは僕が気にしているだけなんでどうでもいいですね。

読み終えて、全体を通してみたとき、最初に気になったのはやっぱり濃度のこと。
ものすごく円滑に流れていて読みやすかったのだけれど、というかそういうのは好きなのだけれど、読み終えるとやっぱり物足りなさが残った。
これは勿論のこと僕の好みであって、そしてその好みに自分が納得する理由を考えただけなんで言葉1厘くらいに聞き流されることを前提に書く。
作中に存在するものには登場するに足りる理由があるわけなんだけど、この作品ではその登場理由があまりにも明確すぎたと思う。
そのせいで、新たに情報が与えられるときには、何か新しいステップに進んだということがわかり、それは読みやすさに繋がるので一概に悪いとは言えないのだけれど、もうちょっと遊びというか無駄があってもよかったんじゃないかと思う。
適当にページを開いて10ページ読んだとして、その開いたページがどこであれ同じ濃度というのはいささか寂しい気がします。
もっとシンプルにいうと好きなシーンは長々と読みたいなぁ、などと思うわけです。

あと、前回ちびっとだけ触れたラストなんですけど、王弁がよくある堅物(という言葉が適切かはわからんけど)に成ってしまったのが残念でなりません。
作品の設定上、仙人とは仙骨のあるものしかなれないということなので王弁は間違いなく人間なのですが、5年間女性を身辺に近づけなかった王弁が人間らしいか、と言われると否定せざるを得ないわけで。

『女性を身辺に近づけなかった』という文面だけだと必死に性欲を抑えていた可能性は否定できないんですけど、これまでずっと僕僕と王弁にスポットを当てつづけてきたのもあり、どうしても王弁が等価値に人を見てる気がします。ただひとりだけの人間を特別に置き、他の人間を等価値に扱うというのはどうしても人間らしいとは思えないんです。
人だとか感情だとか理詰めじゃないとわかっちゃいるんですけど…というか、これはもう僕がどれだけ愛を遠くに置いてるかよくわかりますね。
信頼だとか愛だとかを理解できないのはとても悲しいことですよしかし。


と、危なくフェードアウトするところでしたが、僕僕は5年間何してたんでしょうか。王弁の前から姿を消す理由もよくわかんないし…言い方悪いけど、案外すぐ近くで王弁の5年間を試してたんでしょうかね。