今更過ぎるけどおねこん作


 あるよ、と彼女は言った。
 子供じみた言葉、永遠が。
 ここにあるよ、と彼女が言った。

 ――さよなら。まだ見ぬ最愛の人―― 

 川名みさきの周りには人が集まる。しばしば、彼女達の上げる笑い声が教室の隅にある僕の席まで届いた。笑い、自然と声が1オクターブ跳ね上がる会話をする彼女たちはとても円満な関係を築いているように見える。事実そうなのだろう。彼女は、人と付き合うのがとても上手い。ヤマアラシが暖を取る距離を測るように、とても。
 そういったことを知ったのは僕と彼女が所謂クラスメイトという関係になってからで、彼女がそうであることに僕は幾ばくかの驚きを感じた。中華の代名詞だと思っていた焼餃子が、本場中国では余り物の代名詞だと知ったときくらいに。
 確かに、騒がしく交わされる言葉が、大きな笑い声が、もっと言えば騒ぎが大きければ大きいほど、深い付き合いが出来ているのだと思っている時期が僕にもあった。
 終礼の後、残っていたクラスメイトたちが当たり前のように彼女に声をかけ、ひとり、またひとりと人が扉から出て行った。勿論僕には誰も声をかけない。
 残っていた人間がいなくなると、教室はそれまでとは違った場所であるかのような顔を見せる。人口密度は下から二つ目まで下がり、交流の薄さが教室を広く感じさせる。学校の空気がどこまでも広がっていく感覚。廊下も似たようなものだろう。部活動の声が廊下を伝わり弱々しくも耳に届く。
 帰り易くなった、と椅子を引いた音で彼女は僕に気付き、僕の名前を疑問系で呼んだ。返事をすると器用に机の間を進み僕の隣へとやってくる。信じられないことに、彼女はクラスの席割を諳んじることができる。
「ねえ、何がおもしろいの?」
 と彼女は言った。
「何が、とは?」
 言いながら、僕は初めて言葉を交わしたときと同じだな、となんとはなしに思う。ということは勿論、彼女とは過去に話したことがある。
「これ」
 彼女は芸術的なまでに不満気な顔で一冊の本を机に置いた。見れば少しばかり前に流行ったベストセラー小説で、背表紙には図書室の貸し出書であることを示すラベルシールが貼られている。とはいえ、図書室の利用者の中、もっと言えばこの学校内で、この本を読むのは彼女だけである。それがどういった意味か今更言う必要はないだろう。
「命と記憶を失ってまで人間になって、主人公をひとりっきりで待ち続けようとするヒロインの描写が秀逸、と解説には書いてたよ」
「読んだから知ってるよ」
 と彼女は人懐っこく唇を尖らせ不満を表に出した。彼女の心情が手にとるようにわかる気になるくらい、とても人懐っこく。
 僕は彼女の大きな目を覗き込み、歪んで映る自分の姿を認める。彼女に対してそれは卑怯で不躾だが、ついそうしてしまう。人と円滑な関係を築ける要因には容姿も関係しているのだろう。端的にいって、彼女は美人だ。
「だいたい」
 と大きく動く形のいい唇を僕は眺める。
「七年間も帰ってくるかどうかもわかんないのに待つかな? 私なら絶対待たない。ひとりっきりで七年間だよ? 両親や友達だっていたはずなのに……私なら他の男にコロっといっちゃうかもしれないよ」
 彼女はそう笑ったが嘘に違いなかった。彼女が人に与える印象ほど、彼女は人懐っこくない。優れたコミュニケイション能力はそれ故だろうか。とても臆病だ。人と深く関わることに。
 深く関わらず、深く関わらせない。例外は少ない。
 彼女の瞳を覗き込むと、初めてそうしたときのように寒気のような寂しさが背中を走った。


 その日、彼女は分厚い本を片手に携えて図書室の扉を押した。部屋の中は無人、ではないがそれに最も近いものだった。
 図書室にあって、昼休み開始直後というのは隙間の時間だ。クラス毎にでる授業終了の差や学食で昼食を確保する時間がある。所謂無法地帯。それを利用して僕は図書室で昼食を摂っていた。つまり、彼女がカウンターで本を片手に途方にくれているのを僕だけが見ていた、ということになる。
 少し気にはなったが、彼女が本を返しに来たのだということがわかっていたのでその僅かな好奇心もヘドロのように心の底に沈んでいき、僕は頭の位置を整え、パンを一齧りしてから手にした頁をめくった。何かひとつ行動を挙げるなら、間違いなくそれが僕と彼女の交流の始まりだろう。
「誰か、いるのかな?」
 しっかりと僕を――いや、僕のいる方向へと顔を向けて彼女は言葉を放った。視線を向けてくる彼女が川名みさきであることはすぐにわかった。けれど、わかっていて尚、僕は居心地の悪さを感じずにはいられず、ソファーからカウンター内の椅子へと腰を移動させることになる。無言で引出しを開け、返却手続きをとっていると彼女が口を開いた。申し訳なさそうに。伏せた目が誰よりもそれらしく見えた。
「ごめんね。期間ちょっと過ぎちゃった」
「いいんじゃないか? 別に」
 本心だった。僕は図書委員でもなければ規則を遵守するような生徒でもない。第一、彼女の借りる本を借りる人間がいるとは思えない。誰も困らなければそれでいいじゃないか。
「図書委員の人?」
「去年までは」
「そっか。聞いたことない声だったから誰かと思ったよ」
「返却期限過ぎてることは黙っとくからそっちも黙っててくれ。一応、ここ図書委員以外立ち入り禁止なんだ」
「お昼ご飯食べてたことも?」
 呆気にとられカウンターの上のパンを眺める。匂いだろうか。答える。
「ああ、そっちも」
「任せてよ。これでも口は固い方だよ」
 と彼女は笑った。親しみを感じさせる笑みだった。勿論僕は笑わなかった。それよりも気になることがあったからだ。返却手続きを済ませ、貸し出しカードを返すときに僕はそれを聞いた。許されないことかもしれない。
 なあ。
「何がおもしろいんだ?」
「え……?」
 予想外だったのだろう。きっかりと止まった時間が彼女の戸惑いをよく表していた。言葉足らずだったかもしれないが、意味は通じていたと確信がある。その時、ラップのように張り付いていた絶望的な笑みを僕は生涯忘れないだろう。また、そうであればいいと、思う。 僕はもう一度聞いた。
「何が面白くて笑ってるんだ?」
「えっと……あの……話し易く…ないかな?」
「話しやすく?」
「うん。私には話すしかないからね。たくさん話して、たくさん聞いてもらわないと、何もわからないし何もわかってもらえないから。話すのが好きっていうのもあるんだけどね」
 なるほど。確かに、彼女には話すことに慣れた人間特有の空気があった。まるで昔からの友達であったことを僕だけが忘れているような近しい空気。そんなことないのに、そうであればいいと思う。
「考えたこともなかった」
「変わってるね」
 彼女はくすぐるように笑い、学食に友人を待たせているから、と図書室の扉をくぐり、入れ替わる形で宮本教諭が図書室へと入ってきた。視線は僕からカウンターの上の本に移り、最後はパンで止まった。
 さもありなん。


 僕には友達がいない。それは何故か。
 容姿が悪いから? 彼女のように上手く笑えないから? 面白いことがいえないから? 多分全部が正解だ。加えて、人としてどうかと思うくらいに浅はかだ。彼女は思考し試行し指向させているというのに。
 僕は、彼女に聞いたことすらある。
「なあ、点字の本って面白いか?」と。


 場所は図書室、時間は利用時間終了後。空が赤から黒に移り変わるような時間に彼女は本を借りにやってくる。一応入り口には『閉館』と書かれた札が掛かっているが彼女には関係がない。彼女は鍵を持っているし、何より――いや、それはいいだろう。僕はそのことをよく忘れる。事実そのときも忘れていたのだ。そして、二冊の本をカウンターへと持ってきた彼女に訊いたのだ。なあ、と切り出して。
 彼女は言葉の意味を吟味するような顔をしてから答える。
「一緒じゃないかな」
 ごもっとも。彼女は続ける。
「でも、私にとっては助かるよ」
 彼女のセンサーは敏感である。それは長年培われてきた経験によるのだろう。僕は彼女の言葉の意味をよく理解できていなかった。彼女はそれを理解する。
「例えば、コーヒーを飲みながら本を読んでて、コーヒーを本にこぼしちゃったらどう?」
「大惨事だ」文字が読めなくなるかもしれない。
「だよね。でも、私の場合は、拭けば――」
「ああ。なるほど。いいな、それ」
「うん。私そそっかしいからね。他には」
「まだあるのか?」
「うん。他には、暗いところで読んでも目を悪くしないってことかな。真っ暗でも読めるんだよ?」
 考えて、確かに、と思った。
「すごいでしょ?」
「ああ、すごい」
 その返答を、当時の僕は彼女の言う通り、本に抱いたはずだ。確かにすごい、と。
 けれど実際はどうなのだろう。彼女の周りには常に闇がある。真っ暗な1cm先も見えない濃い黒だ。頭のどこかでかすかにわかっているのに、彼女がそれを深く考えさせることはない。なあ。彼女の周りに人が集まって当然だとは思わないか?


 夏休みのとある日、図書委員の仕事を手伝うことになった。時間が余っていたから、といえば聞こえはいいが、実際のところ図書室で飲食していた罰である。五月蝿くはないが、宮本教諭はそのあたり厳しい。
 彼女もいた。宮本教諭と笑いながら話している。話しぶりからするにふたりはずいぶんと仲がいいらしかった。
 後に聞いたところ「一番お世話になった先生」と彼女は言った。
 本の整理、と書けば四文字で終ってしまう仕事は結構な重労働である。新刊を運び見栄えするように並べ、元新刊の彼らをラベル順に棚に収め、痛みの激しいものは準備室に退避させ、並び順を確認し、修繕の終えていた本を持ってきてまた並べなおす。当然ながら、委員の集まりは悪い。貴重な男手として僕は新刊を運ぶ係になった。
 宮本教諭は僕と彼女をボランティアの手伝い、といったニュアンスで生真面目にも仕事に来た今の図書委員たちに紹介したため彼女らは申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。騙している気がして、胸がひどく痛んだ。こういうとき、僕は本当のことを言った方がいいのだろうか。騙していたことで彼らは僕を憎んだりはしないだろうか。事実を言うことで気を利かせてくれた宮本教諭は気を悪くしないだろうか。わからない。彼女ならどうするだろう。その疑問だけが浮かんでは答えの出ないまま消える。仕事をすることでそういったこと全てが消えると僕は信じた。
 まだ明るいうちから始めたが、仕事の終わりが見えたのは空が赤く染まってからだ。その頃には、胸に感じていた痛みは水を張ったバケツに落とした絵の具のように曖昧模糊としていた。
 新刊を運び終え、本の整理をしている後輩たちを遠目に眺めていた僕の更に後ろで、彼女は何をするでもなく立ち入り禁止にされた社会科準備室のプレートを眺めるように立っていた。
 社会科準備室というのは、学校にいくつか存在する接点をもたずとも卒業できる場所のひとつで、特に入学してきたときから開かずの間と呼ばれているそこは僕も一度も入ったことはない。僕でなくとも彼女とこの部屋の接点を想像することはできなかったろう。
「仕事終った?」何をしているのかを尋ねると彼女はそう返した。
「そっちは?」
「すぐに終っちゃった」
 彼女の仕事は点字の本の整理だ。元より数が少ない。利用者はそれに輪をかけて少ない。確かにすぐ終るだろう。
「ね、今何時?」
 時間を告げると、彼女は以前と同じように「夕焼け、綺麗?」と窓の向こうを眺めた。
 どうして彼女がそこまで夕焼けに執着するのか僕にはよくわからない。もしかすると、僕以外の皆は夕焼けに特別な感情を持っているのかもしれない。悲しいが、ありえることだ。
「曇ってるのかな?」僕の沈黙を彼女はそう解釈した。彼女でも間違えることがある、という事実に単純に救われる。綺麗だよ、と伝えると彼女は満足そうに屋上へ行こう、と笑う。僕はその通りにした。
「昔、ここに落書きしたことがあったんだ」屋上に向かう途中、立ち止まり彼女はそんなことを言った。そして続ける。
「消されちゃったらしいけどね」
 苦笑交じりの言葉に確かな困惑を感じる。彼女には見えているんだろう。まだハッキリと、僕にも、誰にも、見ることのできない落書きが、きっと。


 彼女と会うには、閉館時間の過ぎた図書室にいるか、放課後に屋上に上がればいい。一週間のうち半分以上は彼女に会える。夜行性なのかもしれない。
 つまらない冗談だ。
「そこにいる?」
 本を持っていたから、図書室に寄っていたのかもしれない。僕より数分遅れで金属の扉を押して、屋上の真ん中から彼女は僕の名前を呼んだ。訊いたところによると、宮本教諭が喋ったらしい。図書室でご飯は食べるけど本好きないい生徒なのだと。彼女は前半についてうろたえながら弁解していた。
「なに?」
「最近話してないなあと思って」
「そう……そうかもしれない」
 一週間ぶりくらいだろうか。多分それくらいだと思う。色々なことがあって、色々なめぐり合わせの結果顔を合わせることもなかった。屋上に吹く気持ちのいい風に目を閉じる。何故だろう。ここの風が綺麗であるように思うのは。人の波に汚れていないように思うからだろうか。最も汚いのは僕だというのに。
「いい風だね」
「そうだな」
「夕焼け、綺麗?」
 赤い風に流れるその言葉はどこからかの引用であるように思えたけれど、どこからもってきたのか僕にはわからなかった。彼女のオリジナルであるかもしれないし引用したのかもしれないし、或いは彼女にだって引用先はわからないかもしれない。どうだっていいことだ。芝居じみたその言葉が彼女に似合っていた事以外は。
 端的に言って彼女は美人だ。幾人かの男子が彼女に告白をした、という噂を聞いたこともある。その彼女が、なぜ? いつも疑問に思っていた。
「綺麗だけど、好きじゃない。悲しくなる」
「だから黄昏時っていうんだよ」
「マジで?」
「多分、ね」
「ふうん。ところで、それ、何の本?」
リア王
シェイクスピア好き?」
「まだロミオとジュリエットしか読んだことないんだけど、すごく好きかな。最後のところで泣いちゃったよ」
 恥ずかしそうな笑み。しかし残念ながら僕はその作品が嫌いだった。
「う〜残念だよ」
 僕は彼女とだけ会話することができた。僕のコミュニケイション能力の拙さを彼女だけが文字通り、見逃すことができたからだ。それはやはり汚いことなのだろう。僕が笑いかけてもらうというのは。
 口を開いたのは、だからというわけじゃない。
「なあ」
「なにかな?」
「俺なんかと話して楽しいか?」
 彼女は言葉の意味をかみ締めるように僅か沈黙する。
「どういう意味かな?」
「普通は、さ」
「うん」
 彼女は目を閉じて応じた。真っ暗なディスプレイに文字を浮かべることだけに集中しているように見える。ありがたかった。僕の言葉は、きっと一語一句違えることなくそこに浮かぶだろう。
 ゆっくりと息を吸って、その時間に頭の中で文面を纏める。疑問は常に頭の中にあった。難しいことじゃない。
「話す相手の外見とか、話の上手さとか、友達が多いとか、そういうので話す相手決めるんじゃないのか? 君は人気あるし、その……」
 僕はどういった答えが欲しかったのだろう。最後の言葉を搾り出すとき、どうしても声の震えを止めることはできなかった。
「俺じゃなくても、他に話すやついるんじゃないのか?」
 彼女は言葉をすり潰すように唸り、何かを口に出そうとしてはそれを止める、といったことを繰り返した。文字を打ったはいいが、変換候補が多すぎて正しい漢字を見つけられず途方に暮れているように見えた。何故そんなことを思ったんだろう。彼女に。
 ずいぶんと長い時間を掛けて「難しい質問だね」とだけ言った。
「そうなのか?」
「例えば、今したような話を他の人にすることはできるけど、やっぱりそこからの会話はその人としかできないし、他の人なら今日みたいな話をしたいと思うかどうかもわからないでしょ? 結果として同じ話をするかもしれないけど、それはやっぱり違う意味を持つと思うんだ」
 よくわからない。彼女はそれすらも読み取り補足してくれた。
「ただ君と話したかっただけ。気持ちの問題だよ」
 わかりやすかった。なるほど、と納得してから自分の会話の下手さを詫びた。君しか話す相手がいないんだ、といささか言い分けっぽく。彼女は笑う。
「特別だね」
 そうかもしれない。いや、多分そうなのだろう。
「君は、付き合ってるやつとかいないのか?」
「突然だね」
 特別という単語でクラスの男子の会話を思い出したからなのだが、確かに突然かもしれない。素直に弁解してみると、彼女は苦笑してみせた。それはどこか寂しげ。
「いないよ。私には、そういうの難しいから」
 私には。
 何故だろう。彼女は美人で話も上手く気配りもできて、何かがちょっと違って退屈しない。考えうる限り、彼女以上に話しやすい人間はいないと思う。少なくとも、僕は世界中の人全員が彼女のようであればいいと思っている。そう言ってみた。
「私も、皆が君みたいな世界だったらいいと思うよ」
 吐き出したかっただけな気もするし、その言葉を待っていたような気もする。わからないけれど、どちらにしろ、多分ずっと前から。
 この世界は難しくて、生きていくのがとてもしんどい。何もかもが上手くいくわけじゃない。どれだけ努力したってできないことはあるし、上手くいってるように思えてもふとしたことでそれが壊れてしまうことだってある。いつだって気が抜けない。まだ見ぬ大切なものが掌から零れていくことすら恐ろしい。
 違う世界に行きたい。誰も嫌いにならず誰にも嫌われず、憎むことも憎まれることもない世界に。努力なんてしなくても誰からも愛されてみんなを愛することができる、不安や恐れや痛みを感じずに生きていける、穏やかで暖かい優しい世界に。
「あるよ」
 と彼女は言った。
 子供じみた単語、永遠が。
「ここにあるよ」
 と彼女が言った。彼女の指は頭を差している。いや、頭の中か。
「でも、ここにしかないんだよ」
 諦観めいた声は静かで、風に溶けてしまったのか、心に染み込んだのかわからなくなる。だから、何もいえない。
 緩やかな風が僕の吐瀉したヘドロのように重い空気を少しずつどこかへ運んでくれるのを期待したがそうはならなかった。頬を染めていた空気から徐々に暖かさが失われていく。空がどんどん黒くなる。僕は何もいわず彼女もどんな言葉も口にしなかった。
「寒くなってきたね」
 彼女が腕を抱きそう言ってくれたのは、夜がやってきてくれたからだ。泥にまみれた汚らしい僕に彼女が声をかけてくれたのは、夜が、全てを覆い尽くしてくれたからだと、信じずにはいられない。


ヤマアラシのジレンマ、って知ってる?」
 意図はわからなかったけれど「知っている」と僕は答えた。彼女は続ける。
「いつかの話だよ。憶えてる?」
「どうだろう」
「あれなら美談なんだけどね。私は、ずっと虎か何かだと思ってたんだよ。頭がよくて狩りの上手い、ね。ううん、今もそうかな。そんな虎が洞窟の中で二匹喧嘩もせずにちょっと距離を置いてじっと座ったまま相手のことを見てる」
 確かに、彼女のいうように僕らは虎なのかもしれない。想像してみるとそう思われた。
 僕の二メートル横で彼女は月を見ている。会話しているのかもしれない。揺れない水面を連想させる涼しげな月と。
「洞窟の奥に行かないのは、寂しいからでも寒いからでもなくて見えなくなるのがただ怖いから。
 いつからか、そんな風に考えてるよ」
 どうして、彼女のような人間がそんなことを考えなくちゃいけないんだろう。僕のようなヤツだけでなく、彼女のような優れた人まで。
ヤマアラシになりたいね。それかハリネズミ
ヤマアラシはネズミでハリネズミモグラだけどな」と僕は言った。彼女が軽い言葉を望んでいるとわかったから。
「そうなの?」
「加えていうなら、小さなヤマアラシの針は固くないらしいから、寄り添える時期があるのかもしれない」
 これは引用。聞いた事くらいあるだろう?
「そっか。じゃあ私はハリネズミかな」
 どうして。
 訊くまでもないことだ。僕は笑った。彼女は笑わなかった。わからなかったのだろう。それでいいと思う。


 川名みさきに特別な感情を抱いていたか。 先に言っておくと、その答えを語ることはない。何故なら、それが僕らの関係を最も適切に表現できる方法だからだ。図書館で会い屋上で会い廊下ですれ違い、ときどき言葉を交わす。時間はそうして過ぎた。体育の授業にマラソンが組み込まれる時期だけ、一緒の昼食に時間を割いた事がある。
 彼女から貰いたい言葉はあったが彼女がそれを口にしたことは一度もない。ただ、どんな言葉を欲していたのか、よくわかっていなかった。待っていた。いつからか、深く深く。それだけは確か。
 僕がどんな言葉を欲していたか。今ならわかる。簡単な推理だ。
 彼女はそれを一度も口にしなかった。ただの一度も。
 それが答えだ。


 夜になるとスイッチが入ってしまうのかもしれない。
 まだ日の長い季節に、残暑の象徴のような太陽を見上げたことがある。もしかしたら呼ばれたのかもしれない。視界の端、屋上に見覚えのある人影が見えた。靴を履き替え階段を上り金属の扉を押して声を掛けた。
「何してるんだ?」
「あ、やっときた」
「なにが」
「ロミオ」
「違う」
「残念」
「何してたんだ?」
ロミオとジュリエットごっこ
 来ておくれ、夜。来ておくれ、と彼女は続ける。名前をご丁寧に僕の名前に挿げ替えてくれた。笑顔で。
 嬉しくもなんともない。僕はこの作品が嫌いだ。
「冗談だよ」
「知ってる」
「夜を待ってるんだよ。モグラだから」
 どうして。
 そう思わずにはいられない。彼女の自虐的な声音に、僕は誰よりも引かれる。いけないことだとわかっているから、尚。
「夕焼けが好きなのもそのせいかな。綺麗な夜が見れるから」
 けれど何度でも思う。どうして。
 僕は、彼女にそんな言葉を口にして欲しくはなかった。春の桜夏の向日葵秋の紅葉冬の山茶花。僕はどこまでも信じていた。むせ返る雨の匂いだとか耳が痛くなるような静かな教室の空気だとか寝転んだアスファルトの冷たさだとか、彼女はそういったものしか口にしないのだと。どこまでも。
 けれど、同時に知ってもいた。彼女が僕と同じ言葉を望んでいると。
 僕は彼女の期待には応えなかった。もう彼女から答えを貰っていたからだ。
 もし、万が一、僕がそれに応えていたなら、僕は彼女と多くの男子がうらやむような関係になれただろう。牙も爪も無くした虎のように生まれたてのヤマアラシのように針の抜けきったハリネズミのように。きっと僕らは生きていけただろう。
 けれどそれは悲しいことだと、僕は思う。


「君の人生だしそれでいいと思うよ。でも、僕は君がこの本のヒロインみたいになればいいと思ってる」
「どうして?」
モグラはさ、何かに包まっていたら太陽の光を浴びても大丈夫らしいよ」
「そうなんだ。だから?」
「そう。だから」
 僕の望む真綿のように優しい誰かが、彼女の望む夜の翼で世界を飛び越える誰かが、彼女に見つかればいい。
 そう僕は言わなかった。何故か満足そうな含み笑いが彼女から漏れた。
「ありがとう」
「うん」