目が覚めると誰もいなかった。
 母と、姉との名前を呼んでみたけれど返事はなかった。
 犬の名前を呼んでみたところで『町内全体かくれんぼ』をしていることに思い至った。
『開催日:五月末 鬼:一番起きるのが遅かった者』
 そう書かれていたように思う。思い出しながら時計を眺めると12時だった。
 これだから田舎って嫌。たまの休日くらい寝ててもいいじゃない。
 僅かな期待を込めてノックをしたけれど、姉の部屋からはやはり何も聞こえなかった。もう一度ノックをしてから、ゆっくりとノブを回して姉の部屋に入った。
 なんと言えばいいだろう。そのときの衝撃を。初めて、散らかった姉の部屋を見た。床には本や服が散乱していて、椅子は倒れたまま。まるで嵐が過ぎ去ったようなその部屋を私はただ呆然と、理解が追いつくまで眺めた。 
 理解が追いつくと、溜息を吐いて家を出た。
 町中を歩いて回ろうと思った。
 
 途中寄った商店街の店は全部シャッターが下りていて、不気味なくらいに静か。知っているのに、知らない静けさに包まれたそこは本当に知らない場所に見えた。贔屓の本屋も、割合小洒落た服の多かった店も、なにもかも。
 それが心細くて、公園まで急いだ。公園までの道が、今走る自分の目の前からどんどん『知らない』が広がっていくように思えたから。
 
 けれど、それはとんだ思い違いだった。公園にも人影はなく、ジョギングコースと銘打たれた歩道も砂場も何も存在する意味はなかった。『知らない』は、私よりもっともっと早く広がっていたのだ。商店街も公園も飲み込んで、どこまで続いているのかまるで想像もできない。何処からか雀の声がするけれど、もしかしたら空すらもいつか飲み込まれてしまうかもしれない。西からやってくる雨雲のように空一面を。
 空は高く高く、私には手が届かないから、縋ることすらできない。けれど、飲み込まれることがなければいいと思う。触れたりはしないから、せめて空は飲み込まないで。私から取り上げないで。

 僅かな昇りになったスロープをあがって、最初に蛇口を捻った。風がブランコを揺らして錆びの浮いたブランコの音が聞こえる。勢いよく回しすぎ、飛び跳ねた水が服をぬらしたけど、どうせ誰も見る人などいないのだと開き直る。流石に裸は抵抗があるけど、服が濡れたくらいどうってことない。水が鼻に入って「ぶおっ」とか言ってしまったのも問題ない。何も問題ない。
 蛇口を捻って、顔中の水滴を拭う。砂を踏みしめる音に耳を傾けながら、一番近いブランコに近づく。自然と前髪で隠した、額の傷に手が触れた。
 懐かしい。
 触れる前からわかっていた。
 懐かしい。
 制止する姉の言うことも聞かず、調子にのってブランコを押して、額を縫う怪我をした。驚いた姉はブランコから飛び降りて全身擦り傷まみれになりながら、泣きわめく私を慰めてくれた。私が悪いのにそれから一週間おやつを全部くれた。それを姉と半分づつしていたら非の打ち所のない美談なのだが、おやつ大好きの私はそれらを余すことなく全て食べた。なんということだ。
 苦笑が漏れる。
 確かに、気味悪いくらいに人の気配はないけれど、ここは確かに懐かしい場所。八年前に女の子二人がハメを外しすぎて、勢いのついたブランコで額を縫うケガをした場所。痛かったけれど、ブランコが撤去されていなくてよかったと思う。これがなければ、きっと心はあのときよりももっと痛かったと思うから。

 時間まであと5分だったので、バスの停留場で20分ほど待ってみたけどやっぱりバスは来なかった。もう、乗ってるだけで心地いい眠気と一緒に目的地まで連れて行ってくれるあの感覚を味わうことがないのかと思うと胸がじくりと痛んだ。商店街で自転車を借りて、町中を回った。
 小学校、中学校、図書館、公民館、港。
 やっぱり、だれもいなかった。『知らない』はどうも真面目な性格らしい。島中いたるところの徘徊を終えたらしい。
 回りきった時にはへとへとになっていて、空はもう暗くなり始めていた。赤色がゆっくりと弱く、黒色がゆっくりと強くなっていく。期待と共に、空と一緒に黒くなっていく海を眺めた。もしかしたら、通学用の、本土に渡る船がくるかもしれない。そんな期待と共に。
 空と海、どっちが先に黒くなっているんだろう、とか考える。光の届かない闇に、どっちが先に侵食されているんだろう。
 船はこない。

 黒く染まった空を見上げながら歩いた。そこだけ見て歩いた。
 家を通り過ぎて、山の頂上まで登ってみようと思った。
 もう、知っている場所はそこしかなかったから、そこに一番近い場所にいたかったのかもしれない。
 家を通り過ぎて、頂上まで続く道を歩く。靴を通して感じる石の硬さに葉を鳴かせる涼しい風、膝に擦れるデニムの感触。
 頂上にはベンチと自動販売機とごみ箱がひとつずつある。お茶を買ってベンチから町を見下ろす。
 暗い。すごく暗い。数える程しか電気がついていないせいだ。その数少ない中に入っているから、家の場所もよくわかった。代わりに、そう、代わりに、空は明るい。もしかしたらどこかで、光の数は決められているのかもしれない。下に何個、上に何個、あわせて何個、って。
 ペットボトルを枕に仰向けに転がると、視界には明るい空だけが映って、そんなはずないって知ってるのに、つい手を伸ばしてしまう。星を掴めるんじゃないかと思う。
 空を飛びたいと思うのは、こういう気持ちをいうのだろうか。
 空に意識が沈んでいくような、不思議な感覚。視点が、どんどんと空に近づいていくような、どこまで自分なのかがわからなくなるような、そんな感覚で眠りに落ちた。

 
 欠伸をかみ殺して家に帰った。無造作に靴を脱ぎ散らかしてリビングに入ると、テーブルにラップのかかったおにぎりを見つけた。最初、それが何かわからなかった。ありふれたものをありふれたものだと頭が認識するのに一瞬の時間が要った。その一瞬の間に、何をどう理解できたのだろう。
 部屋全体に視線を這わし、天井もチェックして、締めたばかりの扉を開く。今まで気にしたことのない引き戸に呪詛を吐き散らす。
「お姉ちゃん!」
 お姉ちゃん。
 自慢の姉だった。水泳部で、応援に行った大会ではいつも真ん中のコースにいて、見つけるのは簡単だった。そんな姉をいま探している。
 本土で仕事を持ち、あまり家にいない母の代わりに家事もしていて、私は、たまに作ってくれる姉のお弁当が大好きだった。
 味付けをしやすいように、食べやすいように、好き嫌いの多い私のためにご飯を俵型に握ってくれた。
「お姉ちゃん!」
 水泳部の姉よりも、陸上部の私の方がきっと早い。見つけて、捕まえる。そして、文句をいって泣いてやりたい。心細かったと、寂しかったと、大好きだと。
 乾いた喉に唾液が絡まり、呼吸が出来なくなる。叫ぶようにそれを吐き捨てて足を一歩前へ。
 降り傾斜の負担は大きく、皮をねこそぎ持っていかれるような錯覚。薄く掠れる思考とともに、気力さえなくなっていきそう。立ち止まると、もう走ることはできないと思われた。
「お姉ちゃん!」
 港で上げた声は、波の音に溶けて少しずつ小さくなっていく。それが完全に溶けて消えた後、私の名前を呼ぶ返事があるんじゃないかと期待して耳を澄ませた。
 
 陽は赤く暮れて、灯かりの点いていない家はすっかりその色に浸食されていた。おそらく、一日よりも近い間に姉はここに戻っていたのだろう。そのことに気付かなくてよかったと思う。長い時間返答を待っている間に、そう思うことができた。
 冷たい麦茶を求めて開いた冷蔵庫には卵焼きが入っていて、冷たい麦茶と卵焼きとおにぎりを一緒に飲み込んだ。
 味については、麦茶の味がした、と表現したいと思う。姉の最期の感触を、そうと知らない間に迎えていたのだ。
 ベタつく体をシャワーで流して、ゴールデンの時間に寝た。こんな時間に寝ていたら、今みたいな目にはあってなかったんだろうなぁ、と眠りについた。


 日がな一日をどう過ごそうかと考えた。まず最初に商店街に向かって、飲み水とガスコンロを確保した。重いので止めてあった軽トラを使ってガードレールに擦ってやった。ざまみろ。
 飲み物は全部網に入れて川に突っ込んだ。お風呂はここで水浴びすることに決めた。ここが田舎でよかったと思う。
 

 畑発見。お菓子生活が潤う。しかし米が無くなったらえらい事である。


 何のためにあるのかわからない展示場に意味を見出だす。奥の部屋は埃っぽい事を除くと涼しくて快適である。受付ごっこをしていると昔の私が来た。島の模型にパンチやキックとやりたい放題である。メ! してやった。


 図書館の本を読破してやろうかと思ったけど勘弁してやることにした。標的を本屋に変更して作戦に移る。日の出てる間しか読めないので速やかに!


 電池式のカンテラをゲット。これで夜にも本が読める。邨越さんに感謝。しかし電池がなくなったらえらい事である。
 というか基本的にえらい事だらけである。一番遠いのが救いではあるけど、冬がきちゃったりなんかしたときはえらいことじゃすまない気もする。暖炉のある家でもないもんだろうか。



 一日がかりで『NANA』を読んだ。
 洗濯物は水洗いが基本である。誰もいないので着飾る必要はないけど、やっぱり裸には抵抗がある。

 車の運転が上手くなった。オートマでもミッションでもどんとこい、である。法は私で私が法なので常に無事故無違反なのである。ごーるど免許を超えてプラチナ免許発行してもよさそうなので発行してみた。

 背表紙に呼ばれるように手にとった本を読み進めるうちに、抜けている巻があることに気付いた。というより七巻より先が全くなかった。日付をみると初版は三年前であるから続きがあるはず。そこまで考えて、何故タイトルに惹かれたのかがわかった。私は家に戻った。
 姉の部屋の扉を開けっ放しにしておいてよかったと思う。
 そうでなければ、私は毎日毎日、目にするたびに姉に呼びかけていたかもしれないからだ。事実、部屋の中を見るたびに、私は姉がいない時事を再確認している。実は結構服を持っていたんだな、とか、教科書何も持っていってないんじゃないかな、とかそんな気持ちと一緒に。
 姉が以前から絶賛していたという記憶に間違いはなく、乱雑に散らかった床の上に七巻から先の単行本をみつけた。それにしても、どうしてこれをもっていかなかったんだろう。私は助かったけど。いや、まあ買いなおせば済むことか。
 それが間違いだと三日後にわかることになる。

 三日後のこと。
 図書館で司書ごっこをして、利用客のない図書館の司書の気持ちを痛感しながら暗い道で愛車『軽トラ』を転がして家に帰った。そのあとのことだ。
 すっかり本の虫となっていた私はルパンシリーズを片手にリビングへと入り、
「お姉ちゃん!」
 そう叫んだ。ソファーで横になっていた姉はその声に反応したのかもそもそと起き上がり、焦点の合わない瞳で私の顔をみて、へへぇと声に出して笑い、ピースサインを向けた。ともかく私も「ぴーす」と返した。何か間違ってる?
 
「いや、海はプールとは違うね」
 姉は川で水浴びをしているときにそう言った。
「泳いで来たの!?」
「船出てないからね。それに監視厳しいから。一人が一番安全かなぁ、って。あっ、ちゃんと闇にまぎれて来たのよ?」
 そんなこと聞いてない。
「流石に波がね、予想外だった」
 もっと聞いてない。
 けど、嬉しくて、気持ちが高ぶって、それ以上突っ込めなかった。
 水浴びの後、私の運転で家まで帰った。もうずいぶんと慣れていて、実のところ初めての日にこすってしまったのを後悔してしまっている軽トラである。
 おどけて見せてはいるけど、姉は疲れているようだったのですぐに寝ることにした。部屋は散らかったままだから、と私のベットでふたりで寝るように言った。本当はただ私が一緒に寝たかっただけだと、バレていたと思う。いい口実だと思ったのだけれど。
 姉の体は暖かくて、柔らかくて、そして懐かしい。


 朝のことだ。
 私は、腕を捕まれ、引きずられて目を覚ました。
 ベットからはすでに下ろされていて、どうにも間抜な格好だった。私の腕を掴んでいるのは自衛隊のような格好をした人で、同じ格好をしたひとが他に三人いた。そのうち一人がいった。
「鬼交代だ」
 おにこうたいだ。
「鬼交代だ?」
 変換したけど意味がわからなかった。視界の端で姉が頭を掻いているのを見て意味を理解した。
 は
「離して!」
 腕を振り切り、手の届くもの全てを投げつけた。本、布団、枕、本、本、本、ペン、ライト、人形、とにかく色んなものだ。部屋はすぐに散らかって、まるで隣の姉
「はい、ストーーープ」
「おねえ…ちゃん?」
 寝すぎだ、私。 

 その後のことは覚えていない。ただ、存外に私を抱きしめた姉の腕の力が強かったのは覚えている。
 あれから、姉には会っていない。
 母は娘ふたりの似た境遇に耐えかね自殺を選んだ。世間体と町内鬼ごっこへの恨み、どちらが決め手だったのかわからない。
 私は陸上をきっぱり辞めて水泳の道に進んだ。金は国から払われる少量の手当てと、母の生命保保険で賄うことができたので練習に没頭することができた。
 姉の記録を抜き、二十Km泳ぎきることができたときに、家に帰えろうと思う。暗い海を泳いで、姉に今までの報告をして、ふたりでご飯を食べて、そして、屈強な男たちが来る前に、ごまめになるために目を、潰そうと思う。