林檎と蜂蜜、窓際の日

 髪を焦がす日差しや柔らかな緑の空気。身を切る冬の空気甘い春の花びら澄み切った夜空そして彼女。言葉にして、ひとつずつ忘れていく。そうしないと生きてはいけない。そうやって生きてはいけない。生きては、いけない。目が眩みそうな紙時雨。目を開けていられない。大切なものなはずのに、もうそれがなにかよくわからない。
 

――林檎と蜂蜜、窓際の日――


 調子っぱずれな笛に似た音色と共に天を登った花火がドン、と腹にくる音をたてて夜空に華を咲かせた。曇りがちの空を吹き飛ばす満開の華。花火大会開始の合図。他になにを望もう。空も蝉もなかない空の他になにを。
 君は登校途中に鞄を忘れたことに気付いたような慌てようでスケッチブックにペンを走らせる。君が話せないことは皆が知っている。皆というのは言うまでもなく世界全ての人だ。世界全ての人というのは僕たちを取り巻く世界でのこと。それはとても小さい。
 僕は空を見上げる。明けることのない、暮れない紅の空。
『花火キレイなの』
 焦りの見える崩れた文字を、後からどんな風に思い出すのだろうと僕は考える。
「だな。それにしても、花火なんて久しぶりに見た気がする」
 ほんの少しの時間思案したあと、ぺらりと一枚めくって美男子星に花火はないのか、と君は書く。僕が一年間そこにいたことになっているからだ。美男子星。素晴らしい場所だ。
 そこの王子なんだ、と答えたときの君の疑わしげな瞳を僕は忘れない。僕は答える。
「ないなぁ」
 空を彩る花火どころか、鳥だって空を飛ばない。背にある翼は空を飛ぶためのものじゃなくただ震える体を隠すためだけにあった。
 崖の先端に座って、長い間地平線の向こうの落ちるはずのない夕日を見てた。そういえばいつか、真ん中から割れた夕日をみたことがあるような気がする。半分だけ地平線からどこかにいってしまい、残る青と混じり空を紫色に染めたことがあったはずだ。そして紫色の空を羊が飛んだ。月に帰る雪のように、実に上手く。
 彼等は空に現れては海へと落ちていく。けれど溺れはしない。彼等は泳ぎが達者だ。群れをなして水平線に向かって水を蹴り、次々に邪魔な服を脱いでいく。羊飼いはおらずたどり着く島もない。水面には白い毛が残る。捨てられたビニール袋のように波に揺蕩う。指針はなく行き先は波まかせ。どこに行くのか、考えることが無駄なことだとわかっている。
 空。海と同時に染まっていく。
 身軽になった彼らは空も泳いでみせる。バリカンを当てられたばかりのような寒そうな体で、浅瀬を放浪するクラゲのように、ぷかぷかと。
 クラゲのような彼らはただの羊じゃない。暗い幕引く、夜の羊だ。小気味よく上下する彼らは電車を思い出させる。外の世界を感じさせる曖昧な輪郭をしたブレーキ音にレールの継ぎ目。小さな揺れに押されるような波型の眠気。
 海。空と同時に消えていく。
 水を吸った白い毛は雲になった。肌をみせる彼らが日焼けをしないように、降り注ぐ陽を遮る白い雲だ。
 やせっぽっちの彼らに問い掛ける。
 お前たちは羊か。
 メェー。
 隣で少女が言う。
 それは、少し悲しいよ。
 何故だろう。それが、確かに今は少し悲しい。
 空を飛んで、羊はどこに向かうの?
 彼らは、ただ飛ぶためだけの存在なのかもしれない。
 やがて空飛ぶ羊が目当ての、たくさんのカラスが空を埋めた。羊は海を泳ぎ、呪詛を込めてカラスは空で鳴く。雲は強い西日から僕を守ってくれた。カラスの数はどんどん増え空で踊る。憎悪を発散させるような激しいダンス。
 最後に、彼らはバターになって空に溶ける。夜だ。そうして夜がやってくる。
 夜をずっと待っていた。星も見えないくらい一色に塗り上げられた暗い夜。
 早く朝がくればいい。夜に続きやってくる夜明けがただ見たい。
 蜘蛛の子を散らすように広がる朝日を見るたび、そう思っていた。

「でも、羊は空を飛ぶぜ?」
 君は目を丸くしてスケッチブックに向かう。紅の羊、という僕の言葉を確かに認めながらも、君はそれをなかったことにしてスケッチブックを掲げる。それは絶望的な状況にたいする抵抗に似てる。いつからだろう。君がそういった強さを見につけたのは。
『本当?』
 不安げに揺れる目に僕はクールな百万ドルの笑顔で応える。
「飛ばない羊は、ただの羊さ」
 君はスケッチブックの金具部分で僕を狙い僕はそれを甘んじて受けて痛みに耐えて百万ドルが一年でどれほど値崩れを起こすのかを考える。ページがめくれなくなっても僕のせいではないよ?
「あ、チョコバナナあるぞチョコバナナ」
 花火のように七色に輝かせることはできないけれど、僕のごまかしでも君の瞳を輝かせることはできた。一本二百円、計四百円の煌めきを僕は決して安いと思わない。もしかしたら、僕の笑顔よりも高いかもしれないからじゃ、ない。
『おいしいの』
「ほうは。ほらよはった」
 買った甲斐があった、と続けたかったけれどチョコが垂れそうなので諦めた。君はこぼれそうな唾液を啜た僕を唇をチョコ色に染めながらメッと目でたしなめる。
『おぎょうぎ悪いの』
 スケッチブックと咥えられたチョコバナナを見ていると僕の心は揺れ平静を保つことができない。何故だろう。恋?
 スケッチブック持とうかな、と思う。文字でしか伝えられないものが、この世界にあるのなら。

 ∽

 君は控えめな胸を大きく反らして劇を見せる、と言った。胸はささやかにしか自己主張を行わず、誇らしげに前に出てくるのが腰ばかりだというのが君らしい。楽しみにしてる、と答えた僕の心の内を君は知ることはない。君は満足げに頷き、これから行う大成功に終る劇の始まりを今か今かと待ちわびる。君の視線の先には気持ちのいい青空が広がり、君の望むものがそこから降って来るかのような錯覚を覚える。
 どんな劇なんだ、と君の隣から同じ空の先を見上げて僕は尋ねる。青く深い空の他にはなにもない。当たり前のことだ。
 台本がある、と君は言い小さなポケットから勿体つけてそれらしき冊子を取り出す。僕は質量だとか物理だとかをよく理解できない出来の悪い頭をありがたく思う。
 ぱらぱらとページを繰る間に君は丁寧にスケッチブックに書き込みを済ませ、脚本家志望の竹井が書いた話だとか三年になる前にやっただとかを僕に教えてくれる。君は主役をもらい一生懸命演じた。伝えたいことがあった。大盛況だった。そう、僕はそれを見ることができなかった。残念だ。心からそう思う。だからこそ僕に見せたいのだと君は言う。ハッピーエンドのいい話なのだと。
 確かに見たいけれどここには僕と君のふたりだけしかいない。そう言えば君は劇をすればいい、と微笑む。君らしい答えだ。苦笑せざるを得ない。誰と? と僕が問えば君は笑ってペンを走らせる。こーへー。眩しすぎず翳りのない木漏れ日のような暖かさ。君は更に続ける。
 ずっしょ。
 いい言葉だ。この世界はそのために存在しているし、僕もまたそうだ。
 勿論、ずっと一緒、という意味だ。ここでなら君はそのように話すことができる。伝えたい言葉を伝えたいように。文字の形も日本語の乱れも気にする必要がない。
 僕は君の希望に沿うように笑い、受け入れ、台本のページにゆっくりと目を通す。下ろした腰にジーンズを伝い草の柔らかさがやってくる。君は僕の隣に腰掛けて暖かな太陽と涼やかな風に誘われるがままに肩を揺らす。触れ合う肩から熱伝導率を超えてぽかぽかとした気持ちが胸を満たすのがたまらなく、たまらない。気持ちいい。君は頬を緩ませる。自分とは違う他人の暖かさだとか緑の清々しい香りだとか寂寥感に似た波の音だとか、言葉では伝えられないものが確かにある。そのことに君の心はなにより弾む。今日はこんなにも公演日和。僕は気持ちがいいな、と呟き君はそれを満面の笑みで受けて頷く。
『きもいの!』
 
 

 今はただ、日本語の乱れを呪ってやまない。
 
 ∽

 目を覚ますと穏やかな朝が始まる。葉のすき間を貫く、今明けたばかりのような澄んだ光に君は目を細める。それからご飯を食べようかどうか少しの間悩む。お腹は減りやしないけれど、朝起きると食べた方がいいような気がして頭上を見上げる。
 涼やかな木陰を作ってくれる枝にはヤシの実のような大きな果実がついている。中には色んなものが入っていて、その時々に今一番食べたいものがでてくる。寿司だったり寿司だったり寿司だったりパフェだったりする。僕は少し心配になる。
 君は毎日いくつも実を割る。いくつも、たくさん割る。その日もやはり木を揺すり果実を落とした。
 その日も見事な寿司が出てきた。酢に香るシャリは食べやすい平均よりやや小さい一口サイズに纏められ、ネタは鮮度を誇るように輝いていた。君の瞳の輝きはそれによるものだと、君の名誉のために言っておく必要はあるだろうか。
 味は決して見た目にも劣らない素晴らしいものだった。鼻腔に僅か香る醤油も文句のつけようがない。君はこれ以上の寿司を食べたことがない。けれど、何か物足りない。いくら大好きな寿司に囲まれようと、思い出せない何かが足りない気がする。僅かに山葵の足りない寿司のようだと君は思う。
 その何かは人の形をしているかもしれずハートの形をしているのかもしれず輪郭を持ってないかもしれない。もしかしたら、本当に山葵なのかもしれない。けれどそれは意味のないことだ。実を割り続ければいつか、出てくるかもしれないと君が漠然と思っているから。
 君は迷子だ。この道が、どこにあるのかもわからない出口に続いていると信じている、愚かで愛しい思い出迷子。
 そういえば山葵ってなんだろうと君は考える。日本特産、アブラナ科多年草。それくらいは知っている。しかしそれ以上は知らない。山葵ってお寿司にとってなんだろうと君は考える。とても大切なものなはずだ。
「雨の日のこと覚えてるか?」
 僕が話しかけると君はその疑問を忘れて僕を見上げ言葉に耳を傾ける。目の前のことに集中すると周りが見えなくなるのは君の長所であり短所でもある。
 雨の日のこと。
 君は頷き満面の笑みを作る。
 その日まで君にとって雨は嫌なものだった。雨は君の大切なスケッチブックを濡らしてたくさんのものを奪ってしまう。傘のせいで新しい言葉を紡ぐこともできない。だから君は雨が嫌いだった。
 おはよう、という言葉が恐ろしく冷たく、自分が誰の目にも映っていない気がする。そういう時は学校に人格があって自分だけが異物として門前払いされたらどうしよう、とか馬鹿げた妄想が鎌首をもたげる。年月を重ねるように仲良くなった鉄と錆でできた校門の音に君は誰よりも体を竦ませる。
 校門に吸い込まれていく学生たちに尋ねてまわりたくなる。
 入ってもいいの? 私もそこに行ってもいいの、と。答えを聞くのはとても怖いことで怖いことを乗り越えるにはより大きな勇気がいった。だから実際に聞いて回ったことは一度もない。
 傘から伝わる雨の感触がなくなったことにずいぶんしてから気付く。見上げて自分の傘の上で羽を広げる黒い大きな傘と僕に気付く。
 立ち止まると黒い傘も動きを止めた。濡れることはなかった。しかし目が合った。傘をたたみ『おはよう』と書いた。一動作ごとに許可を得るような気弱な仔犬のような視線を僕はよく覚えている。おはよう、と君が望むままに僕は笑った。一切の肯定以外のものでは君を包むことはできなかったのだろう。君は頬を緩めスケッチブックを見えやすいように高く掲げ僕はもう一度同じ言葉を繰り返した。
 雨の日でも、例え雨が霧のように舞っていても、文字が少しくらいふやけていても、広がりのない手段でも、言葉は届くのだと君は気付いた。
 少し雨が好きになれそうな、そんな発見があった。

「雨の日は好きか?」
 僕がそう聞くと君はまるで答えがそこにあるかのように虚空を眺め、困ったように笑う。君がそうするしかなかったように、言葉には、答えの出ない問いが、確かにある。
「じゃあ、嫌い?」
 君は首を左右に振ってそれに答える。全てがこんな風ならよかったのに。シンプルで、易しくて、あったかくて、少しそっけないけれど優しければ、僕たちはきっと出会わなかったはずだ。僕は訊いた。
「晴れの日は好きか?」

 君は晴れの日が好きだ。
 傘を持たなくてもいいし走っても靴が汚れる心配もない。言葉だってちゃんと通じるし、何より学校に吸い込まれていく皆に混ざっていける。遅刻はしないけれど何処かに立ち寄る余裕のない時間帯が君の登校時間。その中で校門から離れる人間はよく目立つ。
 なんだろうと好奇心の赴くままに堂々とコンビニへ入り商店街を抜け公園を横切り森へと足を踏み入れた僕の後を君は尾けた。脳内BGMは当然のようにジェームズボンドだ。折れた小枝に細心の注意を払うことも忘れない。
 舗装はされていないけれど、それとわかる道を迷うことなく進みやがて開けた広場に着く。広場の真ん中には公園でよくみる金網のゴミ箱があって、木製のベンチがそれを挟むように置かれている。それを眺めている間に僕を見失い君は少し焦る。ゴミ箱の中の大量の目の細かい紙やすりや木屑でベンチが手作りだとわかる。それから僕がそんなところにいるわけがないことに気付いて速やかにゴミ箱から離れる。幸い誰にも見られていなかった。
 僕は広場の隅にある簡易物置の中にいてビーズクッションを取り出していた。それを両脇に抱えた僕と目が合い君は困ったように笑う。僕はそのうちのひとつを君に手渡しひとつをベンチに置いた。君はクッションと僕とを交互に見合わせ、漫画と足の折りたたみテーブルを取りに戻った僕を不思議そうに見つめる。僕が物置に入ると君は鞄を横にスケッチブックとクッションを膝の上に置き僕の背中に視線を送り続ける。僕があるだけの漫画を運び終え一冊の本を読み始めるとなし崩しに漫画の鑑賞会が始まる。君は僕が唯一所持している少女漫画ではなく友情・努力・勝利ごちゃまぜの王道少年物を手に取った。

 三巻まで読んで広場の空気がとても細かく柔らかいと君はふと思う。大した理由もなく学校をサボって漫画を読んでいるという現実が当たり前のように感じる。そうさせるだけの何かがそこには確かにあったのだと君は結論付ける。音はページをめくる音と風と樹と遠いクラクションが聞こえるくらい。世界にはそのみっつしかないんじゃないかと君は思う。漫画の擬音なんて嘘っぱちだ。とても静か。いつしかそれも聞こえなくなって君は眠りに落ちていく。
 喉の渇きで君は目を覚ます。枕にしていたクッションから頭を起こしタオルケットをめくる。そして制服が皺になっていた事実に頭を抱える。加えておなかが減ったと思う。僕のミルク蒸しパンとクリームメロンパンに熱い視線を送り、この上なく幸せそうに胃に収める。そして食後のイチゴ・ラテは格別だと言わんばかりに目を閉じる。君は僕の表情を覚えていないだろう。
 漫画を読み時折僕に視線を投げる。それに僕が気付けば笑みを返した。そうして日が暮れた。木陰にいると時間がゆっくりと流れるのかもしれないと君は思う。輝くような眩しさはないけれど、一日木陰にいるような晴れの日があってもいいのかもしれないと思う。
 安い、立て付けの悪い物置の扉が閉まる音を聞いて君はここだけ重力の大きいんじゃないかと疑念を持つ。重力が強いと時間もゆっくりと流れると聞いたことがあるからだ。間違いないと思う。僕はどうして? と訊き君は答えた。
 だって、ホラ。ただゴミ箱とベンチだけの広場から、こんなにも離れづらい。

 君はそう書いた。憶えてる?

  ∽

『台本読んだ?』
 もう待てないとばかりに君は僕の顔を覗き込む。髪先がゆらりと振り子運動をして止まる。あと半分だよと僕が言えば君は気分の赴くままに駆ける。かと思えば視線を落とし立ち止まり、やがて勢いよく空を見上げる。『影法師』と大きく書き込み、文字の大きさに負けないように僕に向かって掲げる。苦笑する他ない。澄み渡るほどに青い空には真っ白な雲だけがひとつある。他にはなにもない。答えは、いつだってそういうところに転がっている。
「懐かしいけどほどほどにな。日射病になっちまう」
 台本に視線を移せばやがて君の足音が聞こえてきて僕の背後で止まる。背中から影になり涼しさを感じる。そして強く大胆に君は僕の背中に触れる。どうしたのかと問えば君は背中があったかいと答える。心臓の鼓動や呼吸に合わせて上下するリズムで相性がきまるんじゃないかと君は半ば本気で考える。静かで言葉のいらないお決まりの時間。僕とだけのそれを君はとても大切にしている。

 夜に散歩に出かけようと君は言った。少し歩いて空を見上げる。四季の空を全て重ね合わせた色とりどりに輝く満天の星空に君は見惚れる。綺麗なアークトゥルス、スピカ、アンタレス。悲しいベガ、アルタイルに大きなシリウス。彼らはどうして熱いはずなのにこんなにも涼しげなのだろう。狂った夜空に潮風を冷たく思う。「手を繋ごう」と指がからまる。言葉以外でしか伝えられないものが確かにある。体温だとか、その安心感だとか匂いだとか。
 君への応えとして右手と左手をしっかりと繋ぐ。暖かく柔らかな掌の感触。いつの間にか横たわったスケッチブックを中心にフォークダンスが始まる。文化祭では恒例の行事。大量に出るゴミを燃やし、囲い、輪になって踊る。火が消えるまで続く長い文化祭の締めくくり。君はそのときひとりだった。ダンスには、相手がいるというのに。
 しっかり繋いでいて、と繋いだ手が語る。離さない、と応える。そう、僕はあのとき君の隣にはいなかった。だから君は踊った。劇が始まってから終るくらいの長い時間、最初から最期まで。僕はそれを見ていた。

「そんなにフォークダンスが好きなの?」
 へとへとになった君に部長が冗談交じりでそう声をかけた。非難する色は一切なく純粋に呆れたように苦笑しているのがわかる。
「いつ抜けてもいいのに」
 好きなときに好きなだけ踊ればいい。わかっていても君はそうしなかった。
『だって』
 だって。
 続きを書くことはなかったけれど、間違っているはずがないと思った。踊っていれば、輪に入ってさえいれば、いつかダンスの相手に僕の手がやってくる。それは絶対間違いないとどうしてか信じることが出来た。いつやってくるかはわからないけど抱きついておかえり、と大きな声で言ってやろうと心に決めていた。だから待っていた。僕を、長いフォークダンスの間。
 ふと見上げた空では火の粉がまだ踊りを止めていなかった。耳を澄ませば小さな木炭の爆ぜる音が聞こえる。それもすぐに終るだろう。そんなことを呆然と君は思う。
 キャンプファイアーは希望だったのかもしれない。火の粉が灰となり、止まった音楽が空に溶けたとき、君は死んだのだ。

 踊り終わり、距離が開くと冷ややかな夜の空気が体を包んでいることを意識せずにはいられない。だから手は離さない。右手から肩へ、傾斜のキツイ坂を登るように熱がゆっくりと上っていく。風の音が聞こえる。肩から肘へ追い返す強い向かい風は空に輝く星と銀河の果てを思わせる。けれど繋いだ手は温かい。涼しさは淋しさを内包してるんだと感じる。胸に吹く涼やかな風がたくさんのものを運んでいく。僕はほんの少し手に力を込める。両方の手を繋ぎたいと思う。暖かくなりたいと思う。
 ふたりの手が離れる。君が離した。スケッチブックを取りに行く。熱がゆっくりと逃げていく。汗ばんでいた手の平が空気に触れてとても冷たい。熱とは別の、何か大切なものがなくなっていく感じを僕は振り払うことができない。僕は右腕の存在する意味を考える。固く、硬く、堅く。
 寝転び、狂った星空を見上げる。
 右腕を上げて星を掴む事ができたらいい。星を放り投げ天の河を枯渇させ彼らの逢瀬の障害を取り除く。そうすれば悲恋の彼らはどこにでもいる普通のカップルになる。僕はそうしなかった。確かな腕にかかる重み。
 君は持ち上がる僕の腕を征して貧弱な二の腕に頭を乗せる。それから身を寄せ三度頭の位置を整える。君は暖かいと頬を緩める。確かに言葉は要らないのかもしれなかった。けれど抱きたいと僕は君に伝えた。
 言葉がなくても伝わるものや言葉じゃ伝えられないものがあるように、言葉で伝えなければいけないものもきっとあるだろうから。

 ∽
 
 せっかく仲良くなれたけれど僕は君の前から姿を消す。決まっていたことだから仕方のないことだった。また、と口にする勇気はなかったから、ばいばい、とは言わなかった。君は泣かなかった。僕も泣かなかった。雨が降っていなかったからかもしれない。
 やがて君は僕を追いかけて旅にでる。待っていることができなくなったから会いに行こうと決めた。旅に出る君に誰もなにもいわなかった。それは当たり前のことだ。
 たくさんの洋服と精一杯のお小遣いとスケッチブックを持って出発の日は来た。
 君は歩いた。長い時間。最初からわかっていたことだから辛くはなかった。とても遠い場所を目指していた。視界の一番遠い場所にたどり着くような途方もない距離だったからつま先だけをみて歩いた。一歩、また一歩。飽きればスケッチブックを取り出しページをめくった。スケッチブックには全てが詰まってる。怖かったことも嬉しかったことも悩んだことも嬉しかったことも約束も全部。いい暇つぶしだった。
 君は少しずつ僕に近づき、スケッチブックが意味を為さなくなったのと同じ頃僕を見つけた。君にとってそれが幸せなことだったのか僕にはわからない。笑いながら、もうどこにも行かないか、と君は書いた。行かない、と僕は言った。
『ずっしょか』
 僕が頷けば、君は台本の通り僕に背を向け走り出し、速度そのままに力いっぱいスケッチブックを投げた。ページ毎に破れたそれは羽のように風に吹かれ空に舞う。指先だけが覚えてる肌の温もり。口唇だけが覚えてる嘘の香り。体だけが覚えてる温かな優しさ。嬉しい、悲しい、好き、嫌い。愉しい、退屈、過去、未来。さあ、聞けよ世界聞けよ折原浩平。
 空を舞ったスケッチブックは君の強すぎる主張。高く高く舞い上がり燃えて灰になったのか深く深く沈み溶けてしまったのか、やがて見えなくなってしまう。灰となり藻屑となった言葉が水平線の向こうへたどり着くことはないだろう。けれど水平線の更に向こうの海岸で君を待つ誰かにそれが届けばいいと望まずにはいられない。
 スケッチブックが見えなくなると、君は心のそこから幸せだと笑う。君がそうであればもちろん僕もまたそう。今までもそうだしこれからもずっとそうだ。
 僕は君と生きていく。